月瀬りこ (脚本家 • 小説家) 第30回フジテレビヤングシナリオ大賞佳作受賞 「笑顔のカタチ」/ 「New Film Makers Los Angeles」🇺🇸『フローレンスは眠る』2018年度年間最優秀長編作品賞受賞(共同脚本)/ 電子書籍小説 「コロモガエ」などAmazonほかで配信中 / 舞台脚本 / ホラーDVD/オムニバス映画ほか/ WebCMプロット/ 企業PJ / PVシナリオ/コピー/ 取材ライターほか

月瀬文庫

わが家での日々。お父さんシリーズエッセイ

父、暴走して、母に捨てられる

 

テーマ:お父さんシリーズ

父の電話は3回に1回しか出ない。

とにかく、面倒なことが多い上に、くだらないことばかりだからである。

たとえば、天気について永遠と語る…
たとえば、今、テレビで面白い番組をやっているからすぐ観なさいと言う。
たとえば、自分が渡した骨董品を返せと言ってくる…などである。

その日、夜10時を過ぎた頃に電話が鳴った。
そんな遅い時刻に父から電話がかかってくることは珍しい。
いつも、早朝か、昼間が多いからである。
何ごとかあったのかと思って、1回で出た。
すると、やけに丁寧な父の言葉。

「この度、お父さんとお母さんは離婚をすることにしました。色々と迷惑をお掛けしましたが、今後ともよろしくお願いします。子どもたちもみんな成人したので、それぞれにがんばってください」

同情してくれと言わんばかりバカ丁寧な言い草に、私はあえて、そっけなく答えた。

「あ、そう。わかった」

一言で電話を切って、すぐさま母に電話を掛けた。
母は、私の電話に待ってましたと言わんばかりの早さで通話口にでる。
母は、あまりの腹立たしさに、

「もう離婚する!」

と、言い捨て、海沿いの道を車で30分ぶっ飛ばし、赤橋の街の実家に戻っていた。

離婚します報告があったことを告げると
「そうよ、もう離婚よ!」
と、母はプリプリと怒っていった。

理由を聞くと、ものすごくくだらない理由だったことがわかり、唖然とした。

父が凝っている骨董品にまつわることだった。
古い看板を何百枚、何千枚と集め、家の外壁はもちろん、屋根まで全部をそれで埋め尽くしたいと言い出したというのだ。

 

この構想を聞いた母は激怒したのだ。

「冗談じゃない!家の中ならともかく、家の外にそんなものを張り巡らせたら、私はいい笑いものよっ!」

と、家を飛び出したというのだ。

たしかにわからなくもない。「バラのアーチを作るのよ」などと、毎年欠かさずバラを育てていた母だから……。

しかし、もう充分に笑いものの妻だったはず、そんなことくらいで…と思った。

今まで散々、離婚する理由はあったのだ。母が赤橋の街の実家へ帰ったことも何度かある。
「子どもがいなかったら離婚してた」
などと、母が言ったときは、妹と二人で、「今からでも遅くない!」
と背中を勢い良く押したはずなのに、変な所で踏ん張り続けた母が、なんでまたそんなくだらない理由で離婚するのだろう…。

たしかに、少々 反対したくらいでは父は看板屋敷計画を実行するに、違いない。しかし、それは離婚するほどのことなのだろうか…。

しかし、もう父と母が決めたこと、喜んで離婚していただきたいと思った。

突然、出戻ってきた高齢の母に、超高齢の祖母は嬉しそうだったという。
いつまでたっても母と娘の関係はそういうものだと思うとちょっと微笑ましい。

それからしばらく、父は私に探りを入れるために しょっ中、電話を掛けてきた。
しかし、特に用事もないため、毎回同じことを繰り返すのである。

「お父さんとお母さんは離婚することにしました。色々ありましたが、今後ともよろしくお願いします…」と。

妹に連絡を取ると、同じように父から電話が掛かってくるのだと、「早く離婚したらいいのにねぇ」と、ケラケラと笑っていた。

そして、父もわかっているだろうと、妹も私も、母の居所は知らせなかった。

しかし、待てど暮らせど父は看板を買い漁る様子がない。

負けたのだ。看板より 母を選んだのだ。

看板を張り巡らせた家をちょっと楽しみにしていた私には期待外れだった。

一週間あまりの家出から母がシラっと家に帰ると、父もシラっと出迎えた。


あれから数年、母や妹と集まると、いつも男運のなさをこんこんと話すことになる。

そして、離婚しなかった母は言う。

「ここまで我慢したのだから、もとをとる」

母の言葉の横で父はウシシシシと笑って言った。
「ワシ、お母さんに捨てられるところやったの」

そして、私と妹の間で、父の電話には5回に1回出るという暗黙のルールが作られることになっていくのだった。

 

 

父、暴走。踊る好々爺

 

お父さんシリーズ

「父、暴走。踊る好々爺」

 

数年前の夏のこと…。

毎年 お盆になると、父は 子どもたちが生まれ育った家に戻ってくるのをとても楽しみにしている。

数日前から 私たちが好きな食べ物をたくさん用意して首を長くして待っていてくれるのだ。

ハチャメチャな父も、家族が集まると好々爺の微笑みを絶やさない。


その夏もそうだった。

冷えたスイカを食べ、海へ行き、故郷ののんびりとした時間にひたっていた。


昼下がりには少し大きくなった甥っ子や姪っ子が居間に集まり、賑やかに走り回っていた。

そんな光景を目を細めて見守っていた父が 言った。

「今から、わしの ショーのビデオをみんなで観よう!」

父がその昔、本家の座○市の方の舞台に座○市のモノマネで共演させて頂いたときのビデオをみんなで観ようというのだ。

父は「正座して観なさいね」

と、私たちを促した。

駆け回っていた甥っ子たちや姪っ子たちも何が始まるのだろうとワクワクしてテレビの前に正座した。

父は、普段から機械音痴なのだが、そのときだけは張りきって、

「わしが操作する!」

と、リモコンをしかと握りしめた。

ビデオをセットし、画面を見つめる私たちの後ろで少し焦らしながら、ちょっと得意気にスタートボタンを押す父。


と、画面に映し出されたのは…

まさかの…

 


愛染 恭子…。

 


喘ぐ…喘ぐ…喘ぐ…。

 


父はものすごい速さでテレビの前に走りでた。


「止めろっ!止めろっ!」

慌てふためき、騒ぎ立てた。

しかし、リモコンは父の手中。
握りしめたまま、あちこちボタンを押す。
焦った指は音量ボタンを押し、喘ぎ声はますます激しくなった。

私たちは愛染恭子よりも父の慌てぶりにポカンと口を開け、義理の姉は 甥っ子や姪っ子の、目をふさぐべきか耳をふさぐべきかと試行錯誤していた。

しかし、次の瞬間、あろうことか 停止することを諦めた父がリモコンを投げ出し、画面の前に立ちはだかった。

愛染恭子を隠すために必死で小躍りを始めたのだ。

全裸で、ウチワで股間を隠しながらドドンパ(富士急ハイランドのアトラクションではない)のリズムに合わせて踊っている父の姿を何度か見たが、絶妙にその動きに似ている。

踊る父の後ろにはのけぞる愛染恭子

 

なるようになれ…である。

 

そのとき、黙ってコトの成り行きを見つめていた母がおもむろにリモコンを拾いあげた。

「何をするやら…」

そう冷たく言い放って、母は停止ボタンを押した。

父はしょんぼりして、取り出されたビデオのラベルを確認した。

しっかりと「座頭市ショー」とタイトルが書かれていた。

父は「おかしいのぉ、おかしいのぉ」と繰り返し呟いていた。

まさか、上書き録画したわけではあるまいと思いながらも、父ならやりかねないなと思った。

 

幼い甥っ子、姪っ子たちは、スタートした直後にいきなり御開きとなったこの出来事がうまく理解できず、

「ビデオは?ビデオは?」

と繰り返したが…その後 2度とビデオ鑑賞会なるものは我が家では開催されることはなかった。

 

好々爺だったはずの父があっという間に好色爺いに成り下がった瞬間だった。

 

人生とは 儚い。

 

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父、猿にまわされる

もう二十数年前になるだろうか。

なにを思ったのか、父がとつぜん…

「猿かわいいのぉ」

と、つぶやいた。


危ういながれを感知する力をもつことは我が家では必須だった。

「そうでもないとおもう」

と、家族は即座に淡々と否定した。

日○猿軍団やムツゴロウさんの動物番組が連日テレビを賑わしていた頃だ。

だいたいのところ、そういうドキュメントをみて、そのつぎの瞬間に父は必ず「わしもやろう」というのである。

案の定、「日本猿を飼いたい」といいだした。
「猿なんて飼ってどうするの」と聞くと、
父はお手本のように答えた。

「猿回し」

舐めてはいけない…忘れてはいけない…。
そう、父はいつも本気だということを…だ。

呆れ無視する家族をよそに、父は猿を飼っているという人たちへあっという間に、連絡をつなげていった。
悪のネットワークおそるべしである。

この世の中にはうちの父を止めるという行為をかってでる人はいないのかと子供ながらに呆れ返った。

電話でさんざん猿を飼うのは面白いと煽られて、母の冷たい目をよそに父はウキウキで日本猿を飼うことになっていた。

紹介したのが誰なのか子供の私には分からなかったが、他人事とは…本当に恐ろしいものだと身にしみた。

話が決まればとにかく父の行動力の速さは凄まじい。
お待たせすることはあってはならないのだ。
それがサービス精神たる物らしい。

芝生をしきつめていたはずの庭は片手ほどの日数で猿の小屋の建て地として占拠されていった。

一体…何匹飼うのだろう。

間もなく小屋が三つでき、猿がどこからか三匹やってきた。
そのなかでも気性の荒いボスらしき猿がいて、父は「銀太」と名付けた。
銀太はやって来た初日からふてぶてしい態度をしていた。
あいさつはできないわ、すぐに歯を向いて威嚇する、人に手を出すわ、逃げるわ噛むわ…。
柿の木に登って柿をたべるわ…ろくな猿じゃなかった。
ただのチンピラザルだった。

父は教育をしようと彼のBOSSになることに決めた。
2人1組で常に出歩き、銀太が間違ったことをすると、押さえつけて完全服従をしいた。
道端で猿に覆いかぶさって人間の道徳を猿に言い聞かせている父の姿を見る娘の複雑な気持ちを理解してほしい。

父の捨て身のおかげか、銀太は父のいうことだけは聞くようになった。
しかし、あざとい銀太は父の目を盗んでは、母が家庭菜園から収穫したトマトや胡瓜を持って小屋の横を通るたびにヒョイっと盗み喰いするのだった。
激怒した母は「躾がなっていない!」と父を叱り、父は「お母さんにおこられたぞっ!」と銀太を叱っていた。

猿を相手に最低な悪循環である。

父と銀太は格闘のすえ、父に軍配が上がったようで、銀太は母にも気を遣うようになっていった。

が…本当は銀太は父より母に叱られるほうがよほどこわかったのだ。

できが悪いコほどかわいいのか、父は銀太を露天風呂に入れてやったり、抱っこしたり、それはもう子供以上にかわいがった。

 

父は当然見返りを求めていた。
銀太とコンビで「赤フンの座⚪︎市」をしたかったのだ。

しかし、銀太はそこまで、やる気のある真面目な猿ではなかった。
唯一習得できた芸は「お手」。
数ヶ月、数年、教えこんだものは何の役に立たない「お手」だけだったのだ。

それも一瞬、手を出すのみ。

あんなに毎日生傷のたえない死闘を繰り返したのに…「お手」。

父は本気で「猿回し」でひと儲けを企んでいたにちがいなかったというのに、だ。

たまに、山下清のマネをしながら、銀太を連れ、「ぼ、ぼくは、お猿を飼ったんだな。銀太って名前なんだな…か、かわいいんだな」などと近所をまわっていたが、銀太が芸をするわけでなく、猿にまわされているのは完全に父だった。

気の毒だがしかたない。「お手」で日本全国まわってこられるものなら、まわってくればいい。

他の猿たちは父が銀太に振り回されている間、何の芸も仕込まれることなく呑気にくらしていた。

唯一の救いといえば、近所の方々が自前の果物や野菜を持って猿とふれあう行為を非常に楽しんでくださったことだ。子供や孫をつれてきてちょっとした動物園気分を味わっていた。


今もまだ、露天風呂から飛び出した銀太を、真っ裸で追いかける父の姿がまぶたの裏に焼き付いている。
もう、どっちが「猿」だかわからない。
つくづく気の毒な光景であった。

結局、我が家の日本猿は子どもも産み、1番多いときは、5匹の大所帯となった。

銀太が立派に芸のできる猿だったならば私は本当に「猿回し座○市一座」の娘になっていたかもしれない。

父、暴走。骨董にはまる

凝り性の父。
焚き付けられたら勢いよく炎を上げる。

そう…燃え尽きるまで。

きっかけは父の実家である母屋を片付けていたときだった。
脱穀機やら、蓑笠やら、千歯こきやらが続々と出てきたことがあった。
もう使われていないものだったが、祖父母が納屋にしまっておいたものだろう。
そして、それと同時期に我が家の増築の際に古銭やら陶器などが出てきたことである。

そこから、何やら、不穏な動きがはじまった気がする。

古くて珍しいもの…つまり骨董というものに確実に目覚めはじめたのだ。

それまでは、珍しいものがあれば飛びつく程度であった。
しかし、見事に…
珍しいものを見つけ出しいかなる手段を使っても手に入れる方向に見事シフトチェンジした。

何が問題かというと…父の個人だけの趣味ならいいが、それを…押し付けてくることがあるのだ。

一例であるが…

割れたラムネ瓶(父評定価格・10万)

悪趣味極まりない金時計(父評定価格・時価←もちろん父の中では天井なしの値段である)

瓢箪のループタイ(父評定価格・5万)

その他にも混ざり物満載だと思われる純度の限りなく低そうな金の塊。

どこかで拾ったとしか思えない汚い花瓶。

などなど…実家に帰るたびに恩着せがましく渡された。


持たされたものの、どうしていいかわからない。

そう、骨董などは興味ない者にとってはただのゴミなのである。

父は形見分けのような気持ちもあったのかもしれないが、私はひとまず「大黒屋」で価値を調べてやった。

金の時計はたしかにシリアルナンバー入りだったが、あまりにマニアックな時計すぎて、価値はないとのこと。
(大抵、金色のものを渡されたときは、疑ってかかることを学んだ)

瓢箪は無言で差し返される。

混ぜ物満載の金塊は…海に沈めてしまいたい。

ラムネの瓶に関しては…こっそり実家に返した。

そもそも割れたラムネの瓶が10万もするものか。

それからもいまだに父は骨董には目がない。
いつのまにか、色んな骨董屋のかっこうのカモとなり、なぜか近所の骨董屋の店番をしていることもある。

楽しくてしようがないらしい。

本物を見る目はないが、偽物を集める度胸は抜群だ。


しかし、何が一番面倒かといえば、一度渡したこれらの品物を、思い出したように、
父が「返してくれ」と電話してくることである。
処分するに処分できないという…辛さ満載である。

そして、骨董と共に渡され、手放せずにいるものがある。

刀である。

もちろん模造刀である。

実家を出る私に 父はこの刀を差し出し、一言いったのだ。
「これを持ってゆきなさい」

は?
は?
は?
刀を持っていけと?
な、なんのために?!

(断ると面倒なので、もらった…)

流石に、刀を車に積み込んで車で高速を走っていたときには、銃刀法違反で捕まるんじゃないかと気が気でなかった。


そこからまたひと波乱ふた波乱をのりこえて我が家はおそろしい道へと踏み出してゆくのである。

 

父、暴走。庭に温泉を掘る

言い出したら絶対にあとに引かない父。
ある日、突然言い出した。

「庭に温泉を掘る」

庭に温泉…σ( ̄^ ̄)?

耳に入ってきた言葉がまったく理解不能。

何が庭に温泉だ。

いくら県庁所在地が有名な温泉どころといえど、掘ったからってすぐに温泉なんかでるもんか、いや、庭に掘るってそれなに?という感じだった。

しかし、言い出したら聞かない父。

温泉を掘り当てた後の莫大な構想をこれでもかと饒舌に語る。
24時間、湯水は使い放題。電気代もただ。お客を呼んでひと稼ぎ。観光地にしてしまおう!

母は案の定、知らんぷり。

…掘り出した。

庭に何やら掘削機のようなものをもった業者の方が数人きて、ここだとかなんとか…と目星をつけ、グオ~ンと掘り起こす。

無謀としか言いようがない。

 

父は同時にその温泉を掘り当てたときに温泉のデザインに使うであろう石をあつめはじめた。そう、石造りの露天風呂が父のイメージだったらしい。

温泉掘りは数日続いた。少しづつ少しづつ。
掘り進むごとに、わが家の貯蓄は音を立てて崩れていく。

数日後、掘り起こしていく土の質が少しづつ変わった。
温かい温泉が、吹き出すかもしれないとざわめき立つ…が、その作業を見守る母の冷たい目は変わらぬままだった。

しかし、数日後、少し湿った土になったときにはさすがに歓声がわいた。
その時ばかりは、一瞬、母の目が笑ったように見えたが、それはやがて虚しい粘土質に変わっていった。
掘っても掘っても粘土質から変化が訪れない。それどころか、大きな岩盤のようなものにぶち当たってしまった。

掘削作業は、終了を迎えた。

結局 温泉が湧いて染み出すまでには至らなかったのだ。

しかし、この中途半端なまま「庭に温泉」の夢が終わらすわけにはいかない。
もう、掘ってしまったのだ。
意味のない、巨大な穴を…。

計画は急遽変更された。
「庭に露天風呂」という目的に。
巨大な穴を掘ったところはコンクリートで綺麗に補正され、石を一個一個並べて、意味のない大きな穴は石造りの露天風呂へと変身していった。

地道な作業をひたすら続ける父を動かす原動力はなんだろう。

「勝手にすればいい」と言っている母の愛でないことだけはハッキリしている。

もはや、意地…の穴埋め…というところであろう。

父のひとりの意地と努力で石造りの露天風呂が完成した。
その露天風呂の元に紅葉の木を植え、手作りの木の看板を作った。
墨で「市の湯」(座頭市の市の湯である)と書かれていた。

そのお風呂はその後、友人が来たときはもちろん、飼っていた日本猿と一緒に入浴したりするために多いに利用された。
月夜に紅葉が映える美しい露天風呂であったことは確かだった。

しかし、そこには大きな欠点もあった。
その露天風呂の周りは洗濯を干す物干しがある場所なのだ。おまけに囲いがないため、家の中から丸見えなのである。

いくら石造りの露天風呂とはいえ、周りが洗濯物でおまけに覗き放題。

確かに田舎であるゆえ、夜空はどこまでも星空に近く美しく、空は澄み渡っている。
しかし、横を見れば、自分のパンツと赤いふんどしが風に揺れているなんとも切ない状況…。

露天風呂から 裸で股間を押さえ小走りに家の中へ駆け込む情けない父の姿を何度見たことか…。


そこまでして入りたい気持ちは日に日に苦痛となり、ブームは「たまに」訪れるという形で落ち着いた。

今も中庭に大きく存在する我が家の露天風呂「市の湯」

開店休業の日々が続いている。

父、暴走。お山の大将になる

モノマネが大好きな父。

おハコは 赤フンを身に付け、仕込み刀を振り回す…アレなのだが、時々、浮気する。

ある五月の晴れた日曜の朝…。
父は「ぼ、ぼくは、お、お、お散歩に行きたいんだなぁ…」と、突如ニヤニヤとしはじめた。

「出たよ…」

家族は当たり前のごとく無視である。
こういう時はそれぞれのやるべきことに集中し、決して父に同意しないという暗黙の了解。

そんな家族を自分に振り向かせるかどうかが父にとっての勝負である。

しばらくの沈黙のあと、無視する家族にへこたれることもなく父は相変わらずのニヤケ顔で自分の部屋に行った。
ふらりと居間に戻ってきた時にはすでにランニング姿になっていて、食卓に座って様子を伺いはじめた。

「やりはじめたな…」

見て見ぬ振りを決め込む。
決して目を合わせてはいけない。

無視されているのにも関わらず、少しずつ、少しずつ、父の姿に変化が及ぶ。
ベージュの短パンを履き、赤フンのために常時伸ばしているヒゲを剃る。
頭の毛はたいしてないので、変わりない。

そこから、米袋で作ったそれらしいカバン(ズタ袋)を肩から下げ、食卓で貧乏揺りをはじめた。

「ぼ、ぼく、お、お、おにぎりが食べたいんだなぁ」

父はニヤニヤと笑い、誰かがおにぎりを作ってくれるのを待っていた。
もちろん、誰も作るものはいない。
家族の誰にも相手にされない父はひとりででっかいおにぎりを作りはじめた。

どうしても、やらねばならないらしい。

ニセ山下清(芦屋雁之助)になり切った父は、おにぎりとスケッチブックを持ってお散歩に出かけた。

いつものことである。

田舎町だからなのか、こういった父の素行は大変に近所の人たちに喜ばれる。

田舎町というより、他人さまの家だからであるのだろう、とにかく父が変なことをしても近所の人たちは明るく笑って受け入れてくれるのである。

だから、ますます調子に乗る。

しかし、父が外で歩き回っている間に即座にどんなことが行われているか母に報告されるという田舎ならではの回覧板密告方式が存在していた。

ニセ山下清は おにぎりを食べながら、ウロウロと近所の人に挨拶して回った。

「ぼ、ぼくは、絵を描くのが、す、す、好きなんだなぁ」

「ぼ、ぼくは、おにぎりが、だ、だ、大好きなんだなぁ」

「こ、この畑は、よ、よく野菜が育ってるなぁ。きっと、そ、育てる人が、や、優しいんだなぁ」

外に出ても決して、素に戻ることはない。

近所をひととおり回って挨拶し、ちょっとスケッチをして、おにぎりを食べ、野に咲く花を眺めて帰ってきた。

帰宅後、食卓で、ニヤニヤと喜んでいた。わりと評判がよかったのであろうと推測される。

そして、父は調子に乗ってひとこと言った。

「ぼ、ぼくは、お、お母さんに、ご飯を食べさせて、も、もらえないんだなぁ」

発した言葉は元には戻らない。

母がピシャリと一喝した。

「食べても忘れるなら一生食べなくてよろしいっ!!!!!」

ニセ山下清は黙った。

母は知らんぷりしていた。

夕方になって、ニセ山下清は、いつもの父の姿に戻っていた。

食卓を囲み、母の手料理を食べて「世界一おいしい」と言っていた。
(因みに、父はたいてい何を食べても「世界一おいしい」「食べたことないくらい美味い」というので信用ならない)

こっそりとスケッチブックを見たが、絵心はあるらしく、故郷の山や畑の風景が細かく美しく描かれていた。
しかし、いつまでもそれは貼り絵としては完成せぬままであった。

そのあと懲りずに
「ぼ、ぼ、ほくは、お腹がペコペコなんだなぁ」
と呟くも、母は知らんぷりしたままだった。

 

父、暴走。ときどき死にかける

大騒ぎが日常化している父。

あるとき、3度死にかけたと大騒ぎしていたことがある。
どうせ大したことはないだろうと思いながらも、暇だったので聞いてみることにした。
3度というのはどれも飛行機内のことであった。
1度目は、離陸走行中にドアがいきなりバーンと開いたという。黒人の大きな男性3人が力を合わせてドアを閉めたらしい。
「見たぞ、あいつらはスゴイ」とのこと。

2度目は、胴体着陸
車輪が出なくなり緊急で胴体着陸をしたとのこと。
例のごとく、頭を下げて…の姿勢をとったらしい。窓の外をチラッと見たら案の定、すごい火花がみえて、
「もうダメか…と思った」とのこと。

3度目は飛行中に片方のエンジンの火が吹いたこと。片方止まっても飛んだらしい。
「火、吹いたぞ」とのこと。

全部、アメリカでの話だったように思う。

しかし、

この男、3度どころではない。

過去に盲腸と診断され、しばらく様子をみていたが、あまりの痛さに耐えきれず、「今すぐ腹を割っさばいてくれっ!」と夜中に大騒ぎしたらしい。
医者も父をよく知っていたらしく、実際に割っさばいてみると、実は腹膜炎で死にかけていたという。

数年前には、首元におできが出来、「癌かも知れない…病院に行きたい」と言い出した。
風邪でも遺言を残しかねない、いつも大袈裟な狼少年のような父。家族は「オロナインを塗ればいい」と冷たくあしらった。 それでも心配性な父は病院に行き、見事、「癌です」と即答された。

(その後、セカンドオピニオンで癌じゃないですと言われ、サードオピニオンでもあやふやにされている。結局、セカンドオピニオンだろうがサードオピニオンであろうが誤診は多々あることが我が家では着々と証明されていったのである)

父は癌にも何にでも効くという「魔法の水」というものをとある場所から仕入れてきて(1本750ミリリットル¥2000)1日に2本飲みきるという暴挙に出た。

恐ろしく高いその水の箱が我が家に山積みになっていくのをみて、私はどこにこんなお金が隠されていたのだろうと思った。

ついでに他人から勧められるままにプロポリスやカテキン、果てはブルーベリーエキスなど、明らかに関係ないだろうと思われるあらゆる健康食品にも迷わず手を出していた。

結果、優秀な外科医にお会いし、手術で助かったのだが、父の中で魔法の水への感謝は捨て切れていないようである。

ちなみに、手術後、個室から大部屋に移った際に、毎朝の検温時に頼まれもしないのに部屋の点呼をとり、「305号室、全員無事であります」と入り口で敬礼する父は看護師さんに、絶大な人気者だったという。
こういう生命力が彼を生かしているのかも知れない。


暇だから聞いた話でやった話であるが、サイパンでお化けに会った話や中国での怪しい時計屋の話やら彼の話はいつもてんこ盛りである。

書けない話のほうが多すぎて残念ではあるが。