月瀬りこ (脚本家 • 小説家) 第30回フジテレビヤングシナリオ大賞佳作受賞 「笑顔のカタチ」/ 「New Film Makers Los Angeles」🇺🇸『フローレンスは眠る』2018年度年間最優秀長編作品賞受賞(共同脚本)/ 電子書籍小説 「コロモガエ」などAmazonほかで配信中 / 舞台脚本 / ホラーDVD/オムニバス映画ほか/ WebCMプロット/ 企業PJ / PVシナリオ/コピー/ 取材ライターほか

月瀬文庫

わが家での日々。お父さんシリーズエッセイ

父、暴走。夜鳴きうどんに走る

私が確か高校生の頃。

あるブームが我が家に巻き起こった。

タイトルの如く「夜鳴きウドン」
屋台のおウドン屋さんである。

たまたま、我が家の前を通りかかった夜鳴きウドンの屋台の車に父が声をかけ、食べたのがコトの初まりだった。


冬の寒い夜だったことと、その美味しさと温かさ、夜食として食べるという特別な条件がまさに父の心を鷲掴みにした。

「このウドンは世界一うまいっ!」と父は絶賛し、屋台のオヤジさんは上機嫌だった。

家族も最初は喜んで食べていたが、凝りはじめると、とことんまで凝りまくる父。

……そう、毎晩電話で家の前に屋台を呼びはじめたのだ。

夜鳴きウドンのオヤジさんも毎晩、10時くらいになると父の電話に呼ばれ何処からか「タラリラ~♫」と音楽を流しながら屋台の車でやってくる。
そして、おウドンを家族分作り振る舞うと、帰ってゆく。
最初は近所の人たちも父のふれこみによって、夜鳴きウドンを喜んで数回食べることになった。
屋台のオヤジもここまで毎晩呼んでもらえ、客まで紹介してくれるとなれば、たとえ電話で呼びつけられようが、迷惑どころか上得意のお客様GETと言ってもよかろう。
それは数週間も毎日続いたのだから…。

しかし、父は凝りやすく、とことんまで凝りまくるが、飽きるのも人一倍早かった。

数週間、毎晩呼びまくったあと、ふと誰もが思っていることを口にした。

「毎晩食べると…飽きるのぉ(´・_・`)」

……当たり前である。

いくら美味しくても、毎晩夕飯を食べた後におウドンを食べるというのは中々の至難の技である。
それをいつもの父の気まぐれといい、数週間続けた我が家は中々がんばったではないか。

そこから、父は電話をやめた。

ピタリとやめた。

そうなれば、冷蔵庫に貼り付けた夜鳴きウドンの電話番号の存在感も日に日に薄くなっていくであろう。

父は2度と電話をしなかった。

しかし、時すでに遅し。
毎晩、夜10時になると、夜鳴きウドン屋のオヤジさんは、ゆっくりと家の前を通過するという習慣になっていた。
そりゃそうだ。数週間毎晩電話で呼び出したら、ウドン屋のオヤジさんでなくとも、スタンバイするに違いない。
申し訳なかったが、もう、すでにブームは去ったのだ。
家族は夜鳴きウドン屋の「タラリラ~♫」を毎晩聞こえないふりでやり過ごした。

しばらくの間、屋台のオヤジさんは家の前で徐行運転を繰り返したが、全く反応しない我が家に諦めを覚悟したのだろう…いつの間にか現れなくなった。

……気の毒だった。

「このウドンは世界一うまい!」とまで言っておいて、飽きたら無視である。
(実はこの「世界一うまい!」は単に父の口癖である)

数日に一度、数週間に一度という減少の仕方ではなく、スパッと呼ばれなくなった夜鳴き屋ウドン。
あのおウドン屋の親父は、コトを成り行きをどう解釈しただろう。

今でも屋台のラーメンやおうどんの車を見ると、申し訳なさで胸がグッと締め付けられる。

そう。
そうやってハマっては捨てられていく夜鳴きウドン屋のような現象は、我が家においては氷山の一角に過ぎなかったのだが。

 

父、暴走。しきたりをつくる

とある年のお正月の話。

毎年、お正月に父は着物を着るのが習慣になっていた。
その年もわりと粋に着物を着こなしていた父。

しかし「その年」は少しだけ違った。

前年に結婚した兄嫁が初めて我が家にやって来るお正月だったのだ。
父はなんだが様子が落ち着かない。

どうしたのかと聞くと、少し薄くなった頭が着物に似合わない、どうも気になるというのだ。

母は「今さら何を」と知らんぷりしていたが、一緒におせちを用意する私に、父は「頭が…頭が…おかしくないか?」と家の中をついて回った。
頭の中よりマシだとも言えず、「別に変じゃないよ」と適当に返していた。

しかし、父はどうしても気になるらしく、帽子を被ったり鏡の前で髪を整えたりと試行錯誤を繰り返した。

しばらくした頃。

父はいきなり…

「白い布を巻く」と言い出した。

つまり…ターバンを巻くと言い出したのだ。

意味がわからない。


しかし、父は言い出したら聞かない。
やってみないと気が済まない性分なのだ。

父はお雑煮を作る母に、「白い布、白い布」と子どものようにせがんだ。

断ると思いきや、何と、母は無言で押入れから白いシーツを出して父に渡したのだ!

恐るべしこの夫婦。

父はウキウキで私に上手く巻いてくれと言う。
本気かね?…と思いながらもうるさく言うので薄い頭にシーツを巻いてやった。
しかし…シーツ。
布の量がどう考えても多い。

頭の上にこんもりとソフトクリームが乗っているようになってしまう。

しかし、父はそれが嬉しかったらしく、ますます調子に乗った。

「○○さん(兄嫁)をビックリさせるぞ!」

父は「これは、うちの代々伝わる『しきたり』ということにしよう!」と言い出した。



なんだそれ…。

呆れる私たちをよそに父は頭におかしなソフトクリームのターバンを乗っけて、踊りもつけてみようと小躍りして大張り切り。

自分の中で段取りがついたのか、しばらくすると、絶対に笑うなと言い、上座に知らんぷりして兄嫁を迎える準備をして座った。

母は相変わらず素知らぬ顔で数の子の漬かり具合を味見していた。

 

ついにその時はが来る。

ピンポーン!

兄と兄嫁がやってきた。

父の姿を見た瞬間……

兄は「またやってる」という別段変わりない反応をし、兄嫁は「クスッ」と笑った。

…それだけだったのだ。

 

まさかの展開。

父の頭は放置され続けた。

きっかけを失った父は、ターバンを巻いた頭のまま、真面目に新年の挨拶をし、お屠蘇を呑んだ。

そのまま、父は「これは代々伝わるしきたりだから○○さんも来年は巻きなさい」などとボケをかましたが、みんな おせちに舌鼓を打ち、おかしな頭は、放置され続けた。

しばらく経った頃…
今年も黒豆に皺がよらず上手く煮えたと喜んでいた母がおもむろに口を開いた。

「そんなことしてたら、蒸せて余計に禿げる」

その言葉に、きっかけを掴んだ父は、
何気に席を外した。

しばらくし戻ってきた父の頭は少し薄くなった髪の毛がさみしそうに乗っかっているだけだった。

何もなかったように食事は続いた。

 

トイレに行ったついでに父の部屋を覗くと、丸まったシーツがポツンと放置されていた。

あの「しきたり」は次の年には当然消えた。
もう二度とターバンを巻いたお正月はやって来なかった。

わずか数時間で生まれて消えた我が家のしきたり。

しかし……

父の暴走は違う形になってチョコチョコと我が家を賑わせるのだった。

 

父、暴走。悪夢の個人懇談

 

中学三年生の時の話。

高校受験も押し迫り、生徒もソワソワ、先生もソワソワ。

お決まりの 個人懇談が行われることになった。

込み入った話もするのだろう。
当事者抜きの先生と親の懇談である。

通常は母が対応していたのだが、その時はどうしても何かの用事で来られないという。

日程を変更してもらおうとしたが、なんと、父が代打で出席するということになった。

正直…やめてくれ…( ̄▽ ̄||)と思った。

父がまともな対応をする人間だとは思えない。

母も、きっと日程変更を申し出てくれると思っていた。
しかし、進路も決まっていたという安心からか、 何と母は父が出席することを承諾してしまったのだ。

最悪だと思った。

絶対に、無事に終わるわけがない。

半泣きでやめてくれと泣きついたが、
「大丈夫よー。お父さんにも、はいはいって言っておけばいいって言ったから」
と、母には私の心の叫びは届かず、あっさりと却下された。

私の心配をよそに、その当日はやってきた。

生徒は完全下校。

どうすることもできない。

父には、受験する高校も伝えてあるし、もう、信じるしかない。

そうだ、父だって、大人だ。

社会人として、立派に生きている。

先生を前にきっと紳士な態度で臨むだろうと、自分を無理やり納得させ、家路に着いた。

夜になって、懇談からそのまま仕事に行った父が帰宅した。
さっそく「どうだった?!」と聞いた。

「うん、はいはいって言っておいた」
と父は答えた。

ある意味、気が抜けた。
「ありがとう…」

何だ、心配するほどでもなかったかと、母とも笑っていた。

次の日、学校へ行った私は、いつもと変わらぬ学校生活を送っていた。

しかし、その時は来た。

担任の様子がおかしい…。

何かを言いたげにしているのがハッキリとわかった。

嫌な予感がした。

担任は、放課後まで待てなかったのか、掃除の時間にコッソリと私に話かけてきた。

「本当にいいのか?」

担任は、そう言った。

「はい?」

言っている意味がわからなかった。

何が本当にいいのか、なのだろう。

(なんだこの会話、イヤラシイ感じすらする)

私は担任に何の事かと聞いた。


すると、担任は衝撃の言葉を発した。

「進学せずに、許婚と結婚していいのか?!」

「はぁぁぁぁーーーー?!」

白目になった。

「進学する高校はここで間違いないですか?」
という担任の問いに、父は、

「うちの娘は進学しません。実は許婚がおりまして、中学を出たら花嫁修業をさせ、16で結婚することが決まっております」

と言ったというのだ。

やられた…と同時に、やっぱりやったな…と思った。

もう気絶してしまいたいと思った。

私は苦悩の表情を浮かべる先生に、とにかく完全否定をした。

家に帰って父を問い詰めると、ニヤニヤと笑っていた。
母は「また、余計なことして」と言ったが、やりかねないと思っていたのかそれ以上何も言わなかった。

先生がそんな話を本気にするはずがないと思っていたようだ。

しかし、それから何度も担任は私の進路を心配し、本当に許婚はいないのかと確かめてきた。

存在しない許婚に振り回され、途中、自分でも本当はいるんじゃないかとも不安になりながら、私は、
「絶対にいません」

と受験の日まで答え続けたのだ。


お調子者の父の暴走は今も続いている。

元気な証拠だと、やっと最近理解しようと思いはじめた。